JDA決勝の感想と問題提起

本日の決勝の結果は、ディベートの価値観に対する深刻な挑戦であって、私が所属するCoDAの理念にもあるディベートを通じた意思決定が重要と考える立場からも、何かしら反論が必要だろうと思っていますので、以下に簡単に示します。


まず、最初に明らかにしますが、自分は、このような議論がディベートにおいて広く採用される事を望ましいとは全く思いません。その点でも、今日のジャッジの結果は非常に残念と言わざるを得ないです。少なくとも私とディベートに関する考えを異にしていると感じました。


上記の論調から既に明らかですが、投票は自分はaffに入れています。2つの点でnegには投票が不可能です。


まず、重要な論点は否定側が出した価値観に対して肯定側が2ACで出したKが議論内容を哲学的で不可解にして建設的な議論を妨げるという論点です。

これは一定程度理解できる内容です。ただし、否定側は1NRでお互い真摯に議論できてるから良いと返しており、形上は返った形になっています。


一方で、肯定側が出した政策論題による肯定の枠組みを試合中に否定側が否定していない以上、このような反論があるのであれば、否定側は政策論題肯定による方法よりも、何かしら自分達の価値観が上回っているという事を示すべきです。少なくともその点での比較するアプローチは2ACが唯一のスピーチだったと思います。

試合で示されたのは最大限取っても、否定側の方法による論題否定の方法もあるというくらいで、肯定側の方法よりも、より望ましい、という証明はなかったと思います。


講評でnegに入れたジャッジの理由として、2NCで出された目的が大事という話がありました。ただ、これはイニシャルの段階で、目的が重要と言うことと、言説(のあり方?)に基づいて投票するべきということの関係性が明示的ではなかったと思います。(これは試合で出されていた証明水準の話以前に、クレームとエビデンスが一致してないのではないかと思います)


具体的に言えば小野塚の資料で言っていたのは、問題を発見する時に目的が曖昧だと、問題が発見されず、政策や運動も誤ったものになるという事ですが、それが論題肯定・否定の方法に基づいて投票するべきという証明にはなっていません。


関係しそうな議論としては、その前段に出たジャッジの投票の勝敗で議論のあり方が変わるから(正しい議論のあり方、つまり噛み砕けば正しいディベートの目的に投票して欲しい)、という話です。ただ、これも結局肯定側も試合においてディベートの目的を示しているわけで、そことの関係で明示的にどちらが良いという証明はなかったので、目的という点に沿っても、どちらが望ましいかは明らかでなく、この議論はトートロジー的な主張でしょう。

結局の所、否定側が出した価値観を優先して採用すべき理由は試合中に明らかにはされてなかったと思います。


またもう一点重要なのは、2ACでも主張されていて、その後も伸びてますが、否定側の主張が論題の否定(最低賃金を大幅に引き上げるべきである、是か否か)と、どう関わっているのかを否定側は明示的にしていないという点です。

具体的に言うと、「日本は最低賃金を大幅に引き上げるべきである」という事を否定する必要があるのですが、"働かざるもの食うべからず"という言説に共感したら、否定側に入れないといけない理由が試合中にそもそも明らかにされていません。

そもそもの疑問として否定側が1NCで出されている、何かしらの言説に共感したら投票が可能なのであれば、ベーシックインカム論題で「生活保護者は可愛そうだ」という議論に共感したら論題を肯定できるのでしょうか?ヘイトスピーチ規制論題で、「表現というのは自由でなくてはいけない」という事に共感したら、否定側に投票できるのでしょうか?もっと言えば、論題と全く関係のない事象についてでも、何か肯定及び否定できる言説があれば、勝てるのでしょうか?

否定側が言えているのはある政策の導入を検討する時に、抑圧されている言説を受けている人がいるという事ですが、全ての政策は何らかの権利対立がありますから、抑圧されている人がいて、それに共感可能であれば、投票できるという事になりかねません。否定側はなぜ、共感が論題の否定に繋がるのかを示すべきあり、一方で肯定側は直接的に論題を肯定しています。その点でもaffに投票が可能です。


以上2点から検討すると、この試合で否定側に投票する事はできません。


投票結果以上に重要だと思う点は、今回の試合は、アカデミックディベートがどのような価値観を持って、どのような議論空間を目指していくのかの分水嶺的な試合だったと思います。

クリティークが流行し、それを試合で対策を行う事に時間をかけるディベートが果たして良いディベートなのでしょうか?Kが流行する、勝つようになる、という事は多くの選手はその対策に時間をかける事に繋がります。私達のチームも含め、多くのチームはKの対策を多少は準備していたものの、優先度的には低かったと思います。ただし、このような議論が幅広く行われるようになれば勝つためには、より準備に時間を割くことになるでしょう。


決勝後の大会講評では、議論学のあり方と日本のディベートのあり方が離れてきているという指摘がありました。Kや細かいセオリーがNDTも含めた伝統的なディベートであるという事は事実なのだと思います。ただ、一方で故瀧本哲史やCoDAが目指しているディベートは、厳しい現代社会を生き抜くための、意思決定としてのディベートです。その中で、議論のための議論がどれくらい有用なのでしょうか?議論の意味を一々試合で考え直す事は、むしろ象牙の塔にこもってしまっているのではないでしょうか?私は疫学という分野のアカデミアにいますが、今のディベートの方法が社会における意思決定や政策決定の望ましいあり方と、離れているとは思いません。むしろ望ましいあり方にかなり近い意思決定の仕方をしてるとすら思っています。安楽死論題の経験からも、学術的にも劣った議論というよりはかなりハイレベルな議論をしていると認識しています。政策提案という事も、自分は携わってますが、これも同様です。ビジネスサイドでも、メリットデメリット比較方式で意思決定する事が圧倒的に多いのではないでしょうか?

そのような社会の文脈の中で、そもそも何のために議論をするのか?という事を一々聞いてきたり、議論の中で潜在的に良くない言葉を使う方の提案を通さない、というような主張をする人々が社会にいたら、果たしてカウンターパートに相手にされるのでしょうか?良いKやセオリーがあるという事も仰られていました。果たして今日の試合で出されたKが実社会においてどのような意味を持つのでしょうか?もしくは、もっと良いKやセオリーがあるのでしょうか?今日の議論を分かりやすく噛み砕いて説明して、一般的な市民を果たして説得できるのでしょうか?

繰り返しになりますが、社会の中にディベートを位置付けるという点でも、否定側の出した議論がJDAなどの大会で蔓延する事は望ましいことではないと思います。少なくとも、主体的に正しく意思決定しようとする個人が、否定側のやり方で意思決定するというのは、およそあり得ない事です。

否定側に投票したジャッジは否定側のスピーチによれば、そのように選手を勝敗を通じて誘導してる訳ですから、そのような議論の方が(ディベート教育や社会にとって)望ましいという主張をして頂いた方が良いと思います(私は望ましくないと思うので、ここに非常に簡単ではありますが、論点を出しました)


JDAとジャッジの皆さまがどのような議論空間を目指しているのかというのは、建設的な対話で明らかになっていく方が望ましいと思いますので、何かしらのご意見をお待ちしています。